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梅林庵

梅林庵

語録

自らの限られた視点からしか戦没学徒像を捉えられないのは、ある意味で〈伝承の病理学〉ともいえるのではないか。(保阪正康:「きけわだつみのこえ」の戦後史)

第一次、第二次、そして第三次わだつみの会の共通して抱えていた基本的な問題は、ひとことでいえば、そのときどきにその時流に乗った知識人やそれを志向するグループが会に参加し、その精神を摘まみ食いして去っていくという繰り返しがあったということだ。(保阪正康:「きけわだつみのこえ」の戦後史)

「戦争」は、政治的な解決手段を暴力という形で決着をつけようとする行為である。クラウゼヴィッツの『戦争論』は、「暴力によって相手方をこちら側の要求に屈服させる」という言い方をするが、それはあたっているとも思う。同時に膨大な論の展開のなかで、クラウゼヴィッツは、社会が文明化すればするほど戦争に伴う残酷な行為は減っていくとも分析している。二十世紀前半の戦争にせよ、後半の戦争にせよ、基本的には残酷、残虐であることに変わりはないのだが、ただ兵士個人の行為を分析していくと、文明度の高い国家には確かに残酷な行為を置かすものの比率は低いといえる。
 その信頼があって、「白旗を掲げての投降」という現実が成り立つ。
 もし白旗を掲げて投降しても、「捕虜は皆殺しにする」という国家なら、投降自体が成り立つわけはない。太平洋戦争での日本軍は、捕虜になることを厳しく禁じていたために、逆に白旗を掲げて投降してくるアメリカ軍の兵士などに一片の同情も寄せなかった。それが残虐行為を生む結果になってしまった。その視点からいえば、日本社会は戦争のルールそのものを理解していなかったとなるだろう。
(保阪正康:「さまざまなる戦後 天皇が19人いた」角川文庫 補章)


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